塩バター通信

シバタさんの頭の中。雑記。

走る

ジョギング始めました。

 

 

 

 

昨日から。

まだ2日です。

しかも、2日目にして家の中を走るというダメっぷり。

それでも、やっただけえらい。

わたし、えらい!

ありがとう!

 

なぜ突然走り出したかというと「あなたは半年前に食べたものでできている」という本を読んだのがきっかけです。

ざっっっくりと言うと、

本来の「食欲」は体が今足りていない栄養を「食べたい」と感じるようになっている。

でも現代人はストレスなんかでその「食欲」のセンサーが狂ってしまっている。

20分間ジョギングをして、その後に体に正しい栄養を入れることをしばらく続けると、その「食欲」のセンサーが正しく調整されてくる。

ということです。

 

「良さそうだと思ったらとりあえず取り入れてみる」を最近のテーマにしているので、読み終えた昨日から早速走ることにしました。

昨日はみぞおちが痛くなったり体中痒くなったりしたけど、今日はどちらも無事だった。

よかった。

 

あのね、わたし走っただけなんですよ。

しかも長距離走苦手やからめっちゃ遅いし。

やのに脇腹とか脚とか筋肉痛になったんですよ。

どう思います?

普段どんだけ体動かしてへんねん。

仕事中、時間が経つごとに痛くなってきてびっくりしました。

あ、あと、長距離走ると喉の奥から血のにおいというか血の味というかがして気持ち悪くなりません?

わたしだけかなぁ?

せっかく始めたので、しばらく続けてみることにします。

 

わたしを形づくるものたち

今、勢いづいてメルカリにいろいろと出品しています。

不要品を売っています。

ちゃんと必要かどうかを考えて購入しているはずなのに、時間が経つと不要になるなんて不思議ですよね。

だけど購入したときのわたしにはそれが必要だったんだと思うんです。

今は要らないけど、それは、持っていた自分がいるから、要らなくなった。

もし手に入れていないままだったら、ずっと心の片隅にあったかもしれないですよね。

でも一度手に入れたから手放せる。

そうやって、物そのものだけじゃなくて、物と一緒に思考とか気持ちとか感情とか目に見えないものを受け入れたり手放したりしているのかもしれません。

と考えると、今周りにあるものや置いておきたいものにはすべて、そこに存在する理由があるということです。

自分は何を持つのか、あるいは持たないのか、それがわたしを形づくっているのかもしれませんね。

「お金がない」と言うひとは、我慢ができないひと。

わたしは「お金がない」と聞かされるのがとても嫌いです。

食事やイベントに誘ったときに「今お金なくて・・・」「給料日まで、使えるお金が1000円しかないねん・・・」と返されると、なんだかこちらの気持ちまで落ち込みます。

 

なぜ「お金がない」ひとは「お金がない」とすぐに口にするのでしょうか。

「なぜと言われても、ないものはないんだ!」という声が聞こえてきそうですが、本当にそうでしょうか。

 

 

いえ、本当に「ないものはない」のでしょう。

でもそれって、そういう使いかたをしている自分のせいなんじゃないの?

それに「お金がない」というと周りが配慮してくれると思っているのでは?と感じるときがあります。

誰かが奢ってくれたりとか、割り勘だったとしても「少なめでいいよ」と言ってもらえたりとか。

「お金がない」ことにもメリットがあるから、自分から敢えて変わろうとしないのかもしれません。

これは無意識の部分で。人間は変化を恐れる生き物ですから。

 

わたしも決してお給料がいいわけではありませんが、節約は嫌いなので、負担にならない範囲で、これにはお金をつかうけどここでは抑えるという工夫をしています。

実を言うと、工夫とも思っていませんでした。

前に付き合っていたひとや周りの友人知人で「お金がない」と言うひとが複数いた時期があり、そのひとたちを見ていて「そらそんな使い方してたらお金ないに決まってるやん」と思うことがよく目についたのです。

 

「お金がない」ひとは、よくコンビニを利用します。

「お金がない」ひとは、欲しいと思ったらその場で買います。

「お金がない」ひとは、誘いを断りません。(但し、給料日前を除く。)

「お金がない」ひとは、支払いにカードをよく使います。

「お金がない」ひとは、我慢ができません。

 

「お金がない」ひとは、欲しいと思ったら手に入れないと気が済まないようです。

これはなにも値段の高いものに限りません。

コンビニで買い物をするなんてその最たるもので、「お金がない」ひとと一緒にいると「ちょっとコンビニ寄っていい?」とよく言われます。

飲み物を買うとかATMでお金を下ろすとかそういった目的であることが多いですが、飲み物を買うなら自販機でもいいし、お金を下ろすならコンビニのATMじゃなくて銀行のATMのほうが手数料かからないですよね。

「お金がない」ひとから見ると、細かいこと気にしてケチケチしていると思われるのかもしれませんが、「不要な便利さ」にお金を払う「必要」はありません。

それを我慢できないから「お金がない」のではないでしょうか。

そういう細かいところの積み重ねが、給料日前の自分を苦しめているのです。

 

それから、「お金がない」というひとに「コンビニ弁当ばっかりじゃなくて、たまには自分で作ったら?」と言うと「料理できひんから」と返ってくることが多いです。

できひんのじゃなくて、やらへんだけでしょう。

とりあえずフライパン一個でできるものからでもやってみたらいいのに。

これだけ世の中に簡単レシピ、時短レシピが溢れているのに、できないのはよっぽどのひとです。(稀に、本当にできない方もいらっしゃいます。)

 

まぁ、こんな偉そうに書いているわたしだって、お金持ちなんかではありません。

だからこそ簡単に「お金がない」で済ませるひとに腹が立つわけですが、頂いたお給料の中で使うところと使わないところのメリハリをつけて調整しているのです。

 

例えば、友達とごはんを食べたり、宝塚歌劇を観に行ったり、チェロ教室に通うなど、たのしい時間を過ごすためにはお金をつかいます。

気が乗らないときはお断りします。

たのしい時間にお金をつかいたいので。

 

その代わり、洋服にはあまりこだわりがないのでほとんど買いません。

常に身ぎれいにはしておきたいのでヨレヨレの洋服を着ることはしませんが、1シーズンに1着買えばいいほうで、流行ものは避け、長く着られるデザインのものを買うようにしています。

当然自分の好みのものを選びますが、来年も着られるか?が購入するときの基準です。

このあたりはもっとシンプルにシフトしていきたくて、クローゼットの入れ替えを考えています。

 

それから、普段はできるだけ自炊していて、会社にはお弁当を持って行っています。

 

抑えるところは抑えても、毎日楽しく過ごしていますよ。

お金の使いかたにメリハリをつけると、生活にもメリハリがつくのではないかな、と思います。

 

 

便利さにお金を払うのは、お金持ちのすることです。

そういう思考がお金を呼ぶんだという考え方もあります。

ですが、現実として今「お金がない」のなら、何かが間違っているということです。

 

便利さにお金を払うのは、本当にその便利さが必要なときだけにする。

何かを購入したいと思ったら、本当に買う価値があるものか見定めてからにする。

「本当に必要なものだけに、その対価を支払う」ことを意識するだけで「お金がない」状況も少しずつ変わってくるんじゃないかなぁと思うのですが、いかがでしょうか。

怒られるのがこわい

わたしには自分の意見や自分の考えというものが無かった。

今もあるとは言えないかもしれない。

子供のころ、母はとても怒りっぽかった。

親の機嫌が悪いのは子供にとってとても辛いことだ。

居場所がそこにしかないのに、そこにいても安心できないのだから。

わたしはそんな母の機嫌をとろうとするのでなく、なるべく怒らせないように気を配るようになっていた。

母の言うことは絶対である。

逆らってはいけない。

そういうものなのだ。

これはわたしの性格に由来するもので、母に責任はほぼないと思っている。

その証拠に、同じ環境で育ったはずの弟は、母の言うことなど全く聞かず自由奔放に育っていった。

わたしはその弟が叱られているのを聞くだけでもハラハラして、心臓がバクバクして、とても不快だった。

と言っても当人といえばいくら怒られようがケロッとしており、同じ過ちを(何度も)繰り返しては(何度も)叱られていた。

 

母に逆らえないわたしは、ずっと自分で何も決めてこなかった。

高校も、大学も、就職先も。

そして、そのままいい大人と言われる年齢になってしまった。

 

それでも、少しずつ変えていきたいと思って、小さなことから自分の考えや意見を表明する訓練をしている。

今できるのは本当に些細なこと。

たとえば、友達といるときに、何が食べたいとか、どこに行きたいとか。

そんなことも言えなかったのか?と思われるだろうけど、そんなことも言えなかったのだ。

わたしの食べたいものを、相手も同様に食べたいとは限らない。

わたしが行きたいところに、相手も同様に行きたいとは限らない。

無理して合わせてもらうのは申し訳ない。

と、思っていた。

自分に対する評価が異常に低かった。

そのわりには、わたしが何か言うと相手が無理してでも付き合ってくれると思っていたようだ。

それはたぶん、自分自身が人に合わせる日々を送っていたから。

断ったり、嫌だと言ったり、できなかったからだ。

他の人も同じように、嫌だと言えないに違いないと思っていた。

というか、そうじゃない人がいるなんて想像もしていなかった。

自己評価が低いくせに、自意識過剰である。

何故相手が「わたしはそれ食べたくない」と言ってくる可能性を考えなかったのだろうか。

今となっては不思議に思う。

ただ、言われたら言われたで「否定された」と思い込んでいたに違いない。

 

そんなことを考えていたら、ふと、大学時代に知人に勧められてファイナルファンタジーXをプレイしたときのことを思い出した。

わたしはRPGの世界の中でも人の言う通りにしか動けなかった。

村人に話しかける→「○○に行きなさい」と言われる→言われた通り○○に向かう

といった具合に。

そして友人がプレイしているところを見るまでそのことに気がつかなかった。

「○○行かなあかんのちゃうん?」と聞くわたしに友人は「先にこっち見ときたいから」と言った。

わたしは「○○はよ行かな怒られるやん!」と思った。

…一体誰に?

誰も怒らないし、ゲームの中で怒られたからといって、何の不利益があるというのだろうか。

 

ゲームの中で怒られるというので思い出したけれど、大学時代「おいでよ!どうぶつの森」にハマった時期があった。

どうぶつの森はセーブせずに電源を切ると、次に起動させたとき、リセットさんという気性の荒いモグラにめちゃくちゃ怒られる。

そこまで言わんでもいいやんっていうぐらい、めちゃくちゃ怒られる。

普段電源を切らずにスリープモードにしていたのが、ときどきバッテリーが切れてしまい、リセットさんに怒号を浴びせられる羽目になるのだ。

わたしはリセットさんがとても怖くて、大好きだったどうぶつの森をやめてしまった。

 

怒られること、否定されること、を恐れて生きてきた。

このままの自分でも生きていていいこと。

自分が思ったことを伝えてもいいこと。

それから、「嫌われる勇気」

「気をつかって誰かに好かれること」に何の価値があるのか。

そう思えるようになった。

だから、小さなこと些細なことからだけど、自分が思ったことや意見を発していこうと決めた。

今、訓練しています。

ということを、はあちゅうさんのツイートにリプライしたら、知らないひとにリツイートされてその後のツイートで「隙あらば自分語り」と言われていた。笑

自分語りはしてはいけないのかな?

だけど今のわたしには必要なことなので、これからどんどん語っていこうと思う。

よろしくお願いします。

アクセントとメロディー

大阪弁は歌のよう。

大阪人は音の高低を重視しているのだそうだ。

思えば、大阪(の外れ)に生まれ、大阪(の外れ)住むわたしは、ずっとアクセントの概念がわからなかった。

おお↑さか↓とか書かれるアレ。

あ、この矢印はでたらめです。

わからないので。

矢印の↑=音が高いところ

なのかと思ったら、わたしの思い浮かべる音程と一致しない。

なぜだ。

音が高いところじゃないの?強弱?強弱とはなんぞや?

もう、やっぱりさっぱりわからないので、わたしはとうの昔に理解することを諦めた。

大阪人は音の高低の流れ、つまりメロディーで聞いている。

だから、他県出身の俳優さんとかが使う大阪弁に厳しいのだ。

他の地域の人たちはさほど気にしないのに、大阪人だけやたらと文句つけているように思う。

アクセントで聞く他の地域の人たちは、アクセント箇所が合ってさえいれば、あまり些細な違いは気にならないのかもしれない。

昔ある人に浜松の方言を教えてもらったとき、音程を合わせようとしていたら何回言い直しても「違う」と言われた。

相手が音程でなくアクセントで聞いていたからだろう。

大阪人はメロディーで聞くから、大阪弁ネイティブじゃない人が話すと「自分(相手のこと)音痴やねん!」ということになる。

とはいえ、大阪人がメロディーに厳しいのは大阪弁に対してのみであり、みんなが歌ウマというわけにはいかないのが残念なところである。

かなしみと、さみしさと、心強さと

心に小さなかなしみを飼っていたい。

膨らんだりしぼんだりするのを、ときどき眺める。

ということを考えていて、これが『孤独』か、と気づいた。

かなしみや、さみしさや、よろこびを、心に住まわせて、ただ眺めること。

 

タイトルの「心強さと」はただ言いたくなっただけです。

『アルケミスト』感想編

アルケミスト』という本からは、たくさんのエネルギーをもらった。

最初の方は読みにくかったし、心に刺さったのは後の方ばかり。

もう一度読んだら、次はまた別のことを思うんだろうな。

と思うので、読み返す前に今の時点での感想を残しておきたい。

 

「マクトゥーブ」

アラブ人の商人が言った「マクトゥーブ」という言葉が、わたしは気に入った。

「おまえの国の言葉でいえば『それは書かれている』というような意味さ」だそうで。

「なるようになるさ」ほどお気楽でなく、「運命は決まっている」ほどガッチリと固められていない遊びの部分がある印象。

一番最初に「アカシック・レコード」のことが思い浮かんだ。

それから、伊坂幸太郎の「オーデュボンの祈り」に出てくる「優午」という喋るカカシのことも思い出した。

アカシック・レコードは「宇宙のデータバンク」とも呼ばれるもので、そこには人類の誕生から今までのすべてが記されている。

シンクロニシティとか虫の知らせなんかは、このアカシック・レコードから情報を受け取っているから起こる事象。

一方、「優午」というカカシは未来に何が起こるかを知っている。

知っているというよりも、たくさんの起こり得る膨大な事象の中から、条件に当てはまるものを選び取っていくという感じ。

たとえばyes/noで矢印を辿っていくチャートのような。

 

砂漠の女ファティマ

それから、砂漠のオアシスに住むファティマという女性がすごく素敵。

オアシスを離れて旅立とうとする主人公にファティマはこう話す。

「砂漠は私たちの男を連れてゆきます。そして彼らはいつも、戻ってくるとは限りません」と彼女は言った。「私たちはそれを知っていて、それに慣れています。帰らない人は雲の一部になり、谷間にかくれて住む動物の一部になり、地面から湧き出る水の一部になります・・・彼らは大いなる魂になるのです。

 帰ってくる人たちもいます。すると他の女たちは、いつか自分の夫も、戻ってくるかもしれないと思って、幸せになります。私はそうした女たちを見て、彼女らの幸せをうらやましく思ったものでした。今、私もそうした待つ女の一人になります。私は砂漠の女です。そして私はそれを誇りに感じます。私は自分の夫には、砂丘を作る風のように、自由に歩きまわってほしいのです。そしてもし必要であれば、彼が雲や動物や砂漠の水の一部となることも、私は受け入れるでしょう」

ファティマのように、自分の生き方に誇りを持ち、愛する人を信じて待ち続けられる大きな心を持った女性でありたい。

まだまだ修行が足りません。

 

心に耳を傾ける

主人公は錬金術師から心の声をよく聞くように言われます。

「おまえの心に耳を傾けるのだ。心はすべてを知っている。それは大いなる魂から来て、いつか、そこへ戻ってゆくものだからだ」

 わたしはあらゆることを知りたくて、たくさんの知識を得ようと本を読むのかもしれない。

自分自身を知るために。

前の記事で「救い」と書いたけれど、新しい知識や視点を得ることで自分自身が少し理解できて、理解することによってわたしの一部が救われる。

遠回りしていたのかもしれない。

新しい知識や視点はときには必要だけれど、それを得ることに必死で、わたしの「心に耳を傾け」ていなければ意味がない。

ヒントは見つかったとしても、そこに答えはない。

学びは行動によってのみもたらされる。

行動し、自らの体験によって学ぶこと。

ものすごく行動力のある知り合いは、本を全然読まないと言っていた。

そういうことなのだな、と納得した。

 

受け取ることを恐れない。拒否しない。

また引用するけれど、錬金術師が鉛から金を作り出して3人で分けるところ。

そこで錬金術師は円型の金を4つにわけた。

「これはあなたにあげよう」と彼は言って修道士にその一つを差し出した。「あなたの巡礼者に対する親切へのお礼です」

「しかし、これは私のした親切をはるかに越えていますよ」と修道士は言った。

「二度とそんなことを言ってはいけない。命が聞いているかもしれないからね。そして次には、あなたに少ししかくれないかもしれませんよ」

私は今年に入ってからいろいろ本を読んだけれど、お金や幸せについての本には必ず似たような心構えが書かれてある。

受け取ることを恐れないこと。

多すぎる、と拒否しないこと。

なにか代償が必要なのではないかと考える必要もない。

今、そのままの自分がここに存在していることに対しての報酬。

存在しているだけでよいということ。

それを自分自身がそのまますべてを受け入れること。

 

「前兆」に気づく

この物語は、主人公が見た「夢」から始まる。

そして「前兆」を見て進み、実現させていく。

あらゆることが「前兆」を知らせているのに、わたしたちはきっとそれに気づいていない。

わたしはスピリチュアルな話は好きな方だけれど、苦手な人もたくさんいるだろうと思う。

かくいうわたしもすべてをそのまま信じているというわけでない。

この「前兆」あるいは「気づき」や「メッセージ」と言われるようなものについては、わたしなりの考えがあるので、これはまた別の記事として書くことにしよう。