自分の嫌いなところを減らしたら幸せになれる
昔から長所より短所を挙げる方が簡単でした。
「わたしには短所しかない」
そう思っていました。
短所は言い方を変えると長所になるって言いますよね。
そう言われても、どう長所として言い換えればいいのか全く思いつきませんでした。
今はようやく、いくつか出てくるようになりました。
- 好奇心旺盛
- 自分の感情が動いたものに対してはフットワークが軽い
- 読書の習慣がある
とか。
あ、3つしか出てこなかった。
長所は自分でひとつでも思い浮かんだら、周りの人たちは10個ぐらい見つけてくれてるんじゃないのって思ってます。
大きく変わったのは短所のほう。
今までたくさん、いくら挙げてもキリがないくらい思いついていたのに、全然出てこなくなりました。
まぁ、物忘れが激しいとか、ありますけど、周りがそれに合わせて助けてくれて(笑)なんとかなっているから、挙げるほどの短所ではないと思っています。
短所ではなくて、そういう性質。
長所ではなくて、そういう性質。
面接とかでも、あなたはどういう人ですかって聞いてくれたほうが答えやすいですよね。
長所と短所しか聞かれたことない。
そもそもちゃんと就活してないので、きちんとした面接だとそういう風に聞かれたりするのかな?
知らんけど。
自分の嫌いなところ、なくなりました。
「自分嫌いは自分好き」と気づいてから、嫌いなところなくなるまでに10年くらいかかったけど、なくなりました。
どんな自分でもこのままでいいんやって思えるようになりました。
それは、周りにいるわがままな人とか自分の都合しか考えてない人とかすぐ怒鳴る人とか、そういう人を見て「あんなんでも周りに人がおって相手してくれるんやから、わたしの欠点なんかかわいいもんや。大丈夫や。」って思えたから。
仕事はこんな人相手ばっかりでほんまに嫌やけど、そういう気づきがあったという意味では、この仕事ができてよかったのかな。
自分の嫌いなところがたくさんある人は、他の誰に欠点と言われようとも、自分だけはそれを許してあげてください。
自分が嫌いなのは、理想の自分と現実の自分に大きな差異があるから。
理想を低くすると楽になれます。
上を見て愕然とするんじゃなくて、下を見て底上げしていく感じ。
ほんとはあんまりよくないことかもしれないけど、嫌いな人を思い浮かべて「あの人よりはこの点において勝ってる」とかから始めたらいいです。
「あの人でもやっていけてる。わたしはあの人よりは多少好かれてるはず。」とかでもいい。
思ってるだけやったら誰にもバレないから大丈夫です。
自分のこと好きになれなくてもいい。
嫌いなところを減らしていけたら、人生少しずつ楽しくなります。
私が証明です!(某美容系CM風)(このセリフ、クレーム殺到したらしく言わなくなったけど)
スマートなフォン
先々月くらいに、スマホをトイレに落とした。
水没したとき最もやってはいけない行動をしたので、完全にアウト。
だけどスマホのない生活には耐えられず、すぐにAmazonの当日お急ぎ便で端末を購入した。
もちろん、中のデータはもう二度と見られない。
クラウドにバックアップとかもしていなかったので、文字通り、もう二度と…
だけど、何が入っていたのか、メイン画面に並べていたはずのアプリさえ、思い出せなかった。
なにをあんなに並べていたんだろう…
きっと未だに思い出していないものもあるはず。
画像フォルダにだって、たくさん撮った写真があったはずなのに。
でも、わたしは元々記憶力がちょっと難ありなので、なにかを思い出して「あの写真はどこかな?」と探したことが、ほぼない。
思い出さないから見たくもならない。
そういうことに気づかされた。
楽しい思い出はたいていInstagramに残っているし、友達と過ごしたのなら友達がデータを持っている。
わたしのスマホに保存されているのは、多用するスクショのデータがほとんど。
誰かが紹介していて読みたいなって思った本の情報とか、おいしそうなレストランとか、そういうデータ。
これだって、もし消えてしまっても次から次に情報は押し寄せてくるし、それはそれでいいかと思っている。
わたしのスマホは、記憶容量は少ないけどバッテリー容量は多く、保存データの容量は少なめな、スマートなフォンです。
言葉=思考
ここのところ、以前に気持ちを切り替えたはずのことがよく思い出されて、心が悲しい気持ちに支配されていました。
どうしてかなあと思っていたけれど、ふと、心の叫びが聞こえてきて…
いろいろ考えて話し合った結果「いいよ」と言ったけど、わたし、本当は「嫌だ!」と言いたかったんだ。
それに気づいた途端に涙が止まらなくなりました。
たとえ言ったところで結果が変わらなくても、嫌だと思ったのならきちんと言うべきでした。
わたしは思うことがあっても言語化するのに時間がかかるのでなかなか人と話し合うということができません。
だから、わたしの発言を辛抱強く待ってくれる人とじゃないと、深い話ができません。
先日、市川海老蔵さんがNHKのあさイチという番組に出演されていたとき、こうおっしゃっていました。
「考えたことは言葉にできる。思ったことはなかなか言葉にできない。」
わたしには自分の気持ちを考えるということか足りなかったのかもしれない。
ブログでアウトプットするようになって、少しずつ変化していくかな?とも思ったりしています。
なにもの
何者かになりたかったわたし
何者にもなれていないわたし
それでもいいのだとわかっているつもりだけど
周りの人たちがなにかを得ているように見えて
わたしにはやっぱりなにもないように思えて
どうすればこの焦る気持ちを抑えられる?
どうすればこの虚しさを慰められる?
人と話していてもなんだかうまく会話ができなくて
悲しい記憶が蘇って泣きそうになったり
気持ちが不安定な夜は早く寝てしまおうとするけれど
そういうときに限ってなかなか寝つけないなんてよくある話で
会いたいけど会えない人の顔が思い浮かんだりして
会いたいけど会えない犬の匂いを思い出したりして
わたしはただ会いたいなあと思いながら眠りにつきます
みんな夢に出てきてくれないかな
そしてひとりずつ抱きしめさせて
飽きっぽいのは長所でもある!
わたしはとても飽きっぽい。
典型的な三日坊主。
誰かが三日坊主でもまた思い出したときに再開すればいいというようなことを書いていて、気が楽になったことがある。
思えば、手帳に書いている日記も思い出したときにしか書かないし、寒くなってくると編み物をしたくなる(くせに、完成する前に飽きてしまう)し、連続していなくてもいいのかもしれない。
飽きっぽい人はたいてい、熱しやすいタイプなのではないだろうか。
最初の熱量が大きすぎて、好奇心という燃料が燃え尽きるのも早い。
早い段階で、いろいろ知識を吸収して、ある程度吸収したところで満足して飽きてしまう。
そしてまた別のなにかに熱中する。
また飽きる。
そうして初級編の知識ばかり増えていく。
だけどそれは、人との共通点をどんどん増やしていることに等しい。
知り合った人と、会話できる材料がたくさんあるということ。
注意するのは、知らないことはきちんと知らないと伝えるということだ。
知ったかぶりをしても相手にはすぐバレる。
一度はやろうと思ったことがあるものなのだから、全く興味がないわけではないし、正直にこれだけしか知識がないということを相手に告げ、知らないことを教わればいい。
飽きっぽいことはよくないと思っていたけれど、案外、話題の幅が広いと喜ばれることが多い。
飽きっぽいことは、わたしの長所だ。
わたしは今から素直にいきる
昔mixiの日記に「死にたい」「でも死ぬのは怖いからこの世界から消えたい」と書いたら母に怒られた
どうしてそう思うのかを聞いてほしかったのに
なにがつらいのかを話したかったのに
わたしは素直になれなかった
それまでもそれからもずっと素直になれない
誰かが言ってた“死にたい”は“死ぬほど生きたい”って
わたしは死にたかったわけじゃない
消えたかったわけじゃない
わたしはきっと素直になりたかっただけなんだ
わたしはきっと自分の気持ちとか感情をそのまま受けとめてもらいたかっただけなんだ
だれかに
一番近くにいるお母さんに
それは許されないことなんだと思い込んでしまった
言ったら怒られるから
ダメっていわれるから
お母さんがダメならって次は恋人にその役割をさせようとした
いつでも自分が一番じゃなきゃ嫌なの?って言われた
いつでも自分が一番じゃなきゃ嫌だよ
だって今まで一番だったことがないんだもん
一回くらいだれかの一番にならせてよ
そう思ったけどそのときも素直になれなかった
わたしはいつ素直になれるんだろう
いつだってなれるはずなのに
ね