怒られるのがこわい
わたしには自分の意見や自分の考えというものが無かった。
今もあるとは言えないかもしれない。
子供のころ、母はとても怒りっぽかった。
親の機嫌が悪いのは子供にとってとても辛いことだ。
居場所がそこにしかないのに、そこにいても安心できないのだから。
わたしはそんな母の機嫌をとろうとするのでなく、なるべく怒らせないように気を配るようになっていた。
母の言うことは絶対である。
逆らってはいけない。
そういうものなのだ。
これはわたしの性格に由来するもので、母に責任はほぼないと思っている。
その証拠に、同じ環境で育ったはずの弟は、母の言うことなど全く聞かず自由奔放に育っていった。
わたしはその弟が叱られているのを聞くだけでもハラハラして、心臓がバクバクして、とても不快だった。
と言っても当人といえばいくら怒られようがケロッとしており、同じ過ちを(何度も)繰り返しては(何度も)叱られていた。
母に逆らえないわたしは、ずっと自分で何も決めてこなかった。
高校も、大学も、就職先も。
そして、そのままいい大人と言われる年齢になってしまった。
それでも、少しずつ変えていきたいと思って、小さなことから自分の考えや意見を表明する訓練をしている。
今できるのは本当に些細なこと。
たとえば、友達といるときに、何が食べたいとか、どこに行きたいとか。
そんなことも言えなかったのか?と思われるだろうけど、そんなことも言えなかったのだ。
わたしの食べたいものを、相手も同様に食べたいとは限らない。
わたしが行きたいところに、相手も同様に行きたいとは限らない。
無理して合わせてもらうのは申し訳ない。
と、思っていた。
自分に対する評価が異常に低かった。
そのわりには、わたしが何か言うと相手が無理してでも付き合ってくれると思っていたようだ。
それはたぶん、自分自身が人に合わせる日々を送っていたから。
断ったり、嫌だと言ったり、できなかったからだ。
他の人も同じように、嫌だと言えないに違いないと思っていた。
というか、そうじゃない人がいるなんて想像もしていなかった。
自己評価が低いくせに、自意識過剰である。
何故相手が「わたしはそれ食べたくない」と言ってくる可能性を考えなかったのだろうか。
今となっては不思議に思う。
ただ、言われたら言われたで「否定された」と思い込んでいたに違いない。
そんなことを考えていたら、ふと、大学時代に知人に勧められてファイナルファンタジーXをプレイしたときのことを思い出した。
わたしはRPGの世界の中でも人の言う通りにしか動けなかった。
村人に話しかける→「○○に行きなさい」と言われる→言われた通り○○に向かう
といった具合に。
そして友人がプレイしているところを見るまでそのことに気がつかなかった。
「○○行かなあかんのちゃうん?」と聞くわたしに友人は「先にこっち見ときたいから」と言った。
わたしは「○○はよ行かな怒られるやん!」と思った。
…一体誰に?
誰も怒らないし、ゲームの中で怒られたからといって、何の不利益があるというのだろうか。
ゲームの中で怒られるというので思い出したけれど、大学時代「おいでよ!どうぶつの森」にハマった時期があった。
どうぶつの森はセーブせずに電源を切ると、次に起動させたとき、リセットさんという気性の荒いモグラにめちゃくちゃ怒られる。
そこまで言わんでもいいやんっていうぐらい、めちゃくちゃ怒られる。
普段電源を切らずにスリープモードにしていたのが、ときどきバッテリーが切れてしまい、リセットさんに怒号を浴びせられる羽目になるのだ。
わたしはリセットさんがとても怖くて、大好きだったどうぶつの森をやめてしまった。
怒られること、否定されること、を恐れて生きてきた。
このままの自分でも生きていていいこと。
自分が思ったことを伝えてもいいこと。
それから、「嫌われる勇気」
「気をつかって誰かに好かれること」に何の価値があるのか。
そう思えるようになった。
だから、小さなこと些細なことからだけど、自分が思ったことや意見を発していこうと決めた。
今、訓練しています。
ということを、はあちゅうさんのツイートにリプライしたら、知らないひとにリツイートされてその後のツイートで「隙あらば自分語り」と言われていた。笑
自分語りはしてはいけないのかな?
だけど今のわたしには必要なことなので、これからどんどん語っていこうと思う。
よろしくお願いします。